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新島 八重

新島 八重(にいじま やえ)

 (1845~1932) ー女性の地位向上に尽力した会津女性ー


  新島八重は、甲州軍師山本勘助入道々鬼斎の流れを組み、父山本権八、母さくの三女として、1845(弘化2)年11月3日若松城下に生まれた。権八はさくの婿養子である。さくの父直高は会津藩砲術師範であった。家格は黒紐席という上士であったが僅[わず]か15人扶持でしかなかった。

  八重の長兄山本覚馬は、1853(嘉永6)年に師の林権助が江戸出府を命じられた際に随行し、佐久間象山、勝海舟に師事し、また西周[にしあまね]らとも親交があり、全盲となりながらも京都府の府政を担い、後に八重の夫となる新島襄と同志社を創立した。

  1868(慶応4)年、西軍の会津への攻撃は熾烈を極め、さながら地獄絵図の様相を呈していた。砲煙は孔だらけの城壁にも影を落とし、暗雲立ちこめるかの如く城下を包んでいる。八重は、鳥羽伏見の戦いで異郷の地に果てた弟三郎の無念を偲び、三郎の遺品を身に纏[まと]い男装し、元込連発銃を肩に、胸には大小を帯び入城、自らその黒髪を断った。砲弾はそこかしこに着弾炸裂し、負傷者たちはうめきをあげ苦しみ、息絶えてゆく。藩主松平容保の居所とても例外ではなく、焼弾の臭いにむせかえるほどで、容保の前に呼ばれた八重は、敵軍から撃ち込まれた四斤砲[よんきんほう]の不発弾を分解しながら流暢にしかも淡々とその構造を説明する。四斤砲は当時の最新の砲弾であり、中に仕込まれた鉄片が火薬によって四散し多くの被害をもたらすものであった。八重は冷静に説明し、容保の周囲の者たちを驚かせた。八重24歳、幼き日に父をして「この娘が男であったなら。」といわしめた所以であろう。

  9月23日、容保はこれ以上の家臣の死を慮り、無念の白旗を掲げた。

  ついに城は陥落した。

  八重はこの戦いで父を失い弟を失い、操銃を教えた白虎隊の少年たちさえも失ってしまった。母さくと覚馬の娘みねを伴って、八重の祖父直高の奉公人の家に世話になりながら、農作業を手伝い、村の子供たちに読み書きなどを教えること3年、まさに臥薪嘗胆の思いがあった。

  兄覚馬は1864(元治元)年の藩主容保の上洛に伴って京都入りし、そのまま残留、1870(明治3)年にはその才覚を買われ京都府顧問となった。しかし、覚馬は失明しており、1871(明治4)年に八重たちは京都へ向かった。

  京都において八重は、キリスト教宣教医であったゴルドン博士について聖書を習い、英国人ホーンビィ・エバンス夫妻からは英語を学んでいた。

  1872(明治5)年には、女紅場[にょこうば](現府立鴨沂高等学校)新英学校の舎監兼教導試補になる。

  そして3年ほどが経った頃に、ゴルドン博士から新島襄を紹介される。八重は襄にせがまれて女紅場を案内し、これからの国家にあっては婦女子の教育が大切であることを語った。

  女紅場は当初華士族の娘だけが対象であったのだが、庶民の娘たちもすぐに入学を許され、英語、書道、和洋算、裁縫、諸礼などを学び、八重は養蚕を教えていた。寄宿生は80余名、修業期間は3年。

  それから数ヵ月後、「京都に山本覚馬という男がいるからそれに相談せよ」と勝海舟の紹介状を携えて襄が覚馬を訪問。数日後には山本家の同居人となった。覚馬とともに学校設立の準備をするためである。襄は洋行帰りであった。
  当時の八重は、髪は洋風で和服姿、足には西洋靴。兄とも度々英語で会話するなどして西洋カブレなどと陰口する者もいた。

  1875(明治8)年、八重は府知事槇村正直の仲人で襄と婚約し11月女紅場辞職。

  翌1876(明治9)年1月2日、京都初の洗礼を受けた(襄より受洗の記録もある。)切支丹[きりしたん]迫害の気風が全国的に残っており、女性が堂々と洗礼を受けることは相当の勇気が必要だったと思われる。

  1月3日宣教師デビスの司会で結婚式。嫁の貰い手がないのではと母を嘆かせていた山本八重は、新島八重となった。

  1878(明治11)年9月16日、同志社女学校が正式開校となり、同志社々長に襄、結社人山本覚馬。教師は外国人宣教師があたり、母さくは舎監となった。

  1883(明治16)年、夫と連れだって故郷会津を訪れ、洋装で夫の人力車にも同車する様子は、古老たちの眉をひそめさせ、あまり良く言う者もなく、羨望と興味の的となり、しばらく悪い噂だけが一人歩きした。

  1890(明治23)年、襄は同志社総長になったが48歳で他界。
  1894(明治27)年、日清戦争では篤志看護婦として傷病兵の看護にあたり勲七等、1904(明治37)年の日露戦争では従軍し勲六等。

  徳富蘇峰、蘆花兄弟などから演説会で「頭と足は西洋、胴は日本の鵺[ぬえ]女。」などと揶揄されても泰然自若としていた八重も、夫の遺志を継ぎ同志社の発展に努め、自らも作法教授となり、祖先山本道珍が会津藩茶道頭であったことから茶道を教えたり、建仁寺黙雷和尚などと茶事を楽しみ茶道に明け暮れ、聖書も片時も離さなかった。

  1932(昭和7)年7月15日、乱世に生き、同志社のおばあ様と慕われた八重逝去。享年88歳。

  葬儀は同志社葬として営まれた。



参考文献


(竹内 智恵子 -「福島県女性史」1近現代に活躍した女性たち より)
※学校名については、現在の名称に一部修正