山川 捨松(やまかわすてまつ)

 (1860~1919) ー維新後最初の女子留学生ー


 山川捨松は我が国最初の女子留学生であった。しかし現在考えるほど恵まれた境遇ではなく、不屈の精神で生涯を貫いた女性である。

  捨松は幼名咲子[さきこ]、1860(万延元)年2月24日、会津若松市東栄町八番付近に当たる当時の若松城下本二之丁山川大蔵[おおくら](後の浩[ひろし])の末妹に生まれた。兄弟は二男五女あった。

  咲子が生まれたとき、父の山川尚江重固は1ヵ月ほど前に病死していた。このため咲子は祖父山川兵衛重英[ひょうえしげひで]と母えん(雅号唐衣[からころも])に育てられ、中途から15歳年長の長兄大蔵が父親代わりとなり、次兄健次郎が賢兄であった。

  山川家は信州高遠時代から代々保科松平家に仕え、祖父兵衛は300石の勘定奉公で身を立て、幕末会津藩の財政を担当し、1000石の家老にまでなった理財の才のある人であった。

  なんと言っても咲子を不幸にしたのは、8歳のときに起こった戊辰戦争であった。長兄は青年家老として第一線を指揮し、祖父と次兄は城に詰めていたが、8月23日からの籠城戦には、咲子は母や姉たちと入城して、弾雨の中で戦うことになった。その日から弾薬運びをした。

  この日飯盛山では白虎隊士20名が自決したが、ただ一人奇蹟的に蘇生した飯沼定吉は、母えんの実妹の次男(従兄弟)であった。

  籠城戦はものすごく恐ろしい戦争であった。長兄の妻は砲弾に当たって死し、咲子自身も軽傷を負ったほどだったが、幼いときから会津武士の娘として、「ならぬことはならぬ」の藩の教育を受けていたので、懸命に戦った。

  後に咲子が自ら英語で会津戦争の体験を語った記事がアメリカの雑誌に載った。この戦争体験は生涯を通して忘れられない人生の出発だった。

  会津藩は敗戦の結果、遂に降伏したが、若松の町の大半は兵火で焼かれ、藩士と家族ら一万七千余人は北の果て斗南藩(青森県)に移住させられて、大変な苦難をなめた。

  咲子の長兄浩が斗南藩の責任者でもあったゆえか、1871(明治4)年に北海道開拓使からアメリカへ派遣される女子留学生の中に咲子が入った。

  しかし、当時の世間は「あんな小さい娘を海外に追い出すなんて、母親は鬼だ」と噂されるほどで、母えんは12歳の咲子の名を「捨松[すてまつ]」と改めさせ、一度は捨てるが将来を期待してマツという意味であった。

  1871(明治4)年11月、アメリカ丸という外輪船は横浜から23日かかってサンフランシスコに着いた。同船には岩倉具視[いわくらともみ]遣外使節団一行とともに、五人の少女が乗っていた。

  この中の15歳の年長者2人はホームシックにかかって間もなく帰国したが、九歳の永井繁子と八歳の津田梅子と12歳の捨松は、アメリカ東部に別居しながら10年間留学することになる。

  同年にアメリカ西部の町で同じ会津生まれの少女おけいがワカマツコロニーの夢も破れて淋しく病死したことは、知るよしもなかった。

  捨松はニューヘブン市の宣教師レオナルド・ベーコン夫妻の家庭に入って、その娘アリスとともに、小中から高校の勉強を楽しんだ。幸いに兄の健次郎も同市のエール大学で物理学を学んでいたので、時々は会って日本語を忘れないよう話したという。

  さらに捨松は名門バァッサー大学に進学。同級生からの信頼を受け、卒業式には「日本に対する英国の外交政策」という題で英語で講演し、現地新聞に報じられたほどであった。

  卒業後、ニューヘブンの市民病院で看護学の勉強をした。捨松は戊辰戦争の体験を忘れなかったにちがいない。その結果、甲種看護婦の資格を日本人で初めて取得した人になる。

  1882(明治15)年11月21日、捨松と津田梅子は丸11年ぶりに横浜の港へ帰ってきた。永井繁子は二人より1年早く結婚のため帰国していたので、二人を出迎えた。

  しかし国費留学して帰国した彼女たちに当時の文部省は与えるだけの仕事がなかった。母えんをはじめ山川家兄姉はよく迎えてくれたが、明治10年代の日本の生活はあまりにも貧しくアメリカの生活とは勝手が違っていた。

  その頃、永井繁子と海軍武官瓜生外吉の結婚パーティで「ベニスの商人」を演じた美しい捨松を見初めたのは、薩摩出身の陸軍中将で大臣の大山巌(42歳)であった。大山は先年3人の娘を遺して妻に病死されていた。

  当時の結婚適齢期を過ぎたとはいえ、24歳の捨松に後妻にとの結婚申込みであった。まして大山は会津の旧敵薩摩人で、事実戊辰戦争では鶴ヶ城を砲撃した将校である。山川家はじめ会津側は大反対であった。

  しかし、捨松は結婚を決意した。女性を大事にする大山を素晴らしい人と思ったのである。アメリカの親友アリスに、どんな反対があっても、私はこの人と結婚すると便りしている。

  陸軍大臣夫人で3人の娘の母となった捨松は「鹿鳴館の貴婦人」と呼ばれた。明治政府の外交政策として建てた鹿鳴館で、外国人を招待する西洋式の礼儀作法を日本の上流夫人たちに教えたのが、アメリカで教育を受けた捨松だった。

  捨松は鹿鳴館でバザーを開いた。この収益金でできたのが有志共立東京病院(慈恵医大の前身)所属の、我が国初の看護婦学校であった。捨松はその後も日本赤十字社に働きかけ篤志看護婦人会を発足させている。ニューヘブンで学んだ看護学が役に立ったのである。

  大山家の家庭では二男一女の子に恵まれ、6人の子を育てる母であったが、大山巌が日清戦争では第二軍司令官、日露戦争では満州派遣軍総司令官になって活躍し、ついには公爵・元帥にも出世したので、その夫人としての内助も大変であったろう。日露戦争のときの捨松は、アメリカの週刊誌や『ロンドンタイムス』に寄稿し、日本の立場を世界に訴え、後の講話条約を有利にするのに役立った。

  しかし、晩年は不幸なこともあった。徳富蘆花の小説『不如帰[ほととぎす]』のモデル事件で捨松は世間から冷たく中傷され、長男は海軍で事故死した。夫の巌を失ったときは国葬となり、涙を流す余裕もなかった。それでも津田梅子の津田英学塾を援助していたが、その中途にして1919(大正8)年2月17日、不帰の客となった。享年59歳。西那須野に大山家墓地がある。



参考文献


(宮崎 十三八 -「福島県女性史」1近現代に活躍した女性たち より)