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宮本 百合子

宮本 百合子(みやもと ゆりこ)

 (1899~1951) ー人道主義から人間解放の文学を目指してー


 宮本(中條)百合子は東京生まれの東京育ちであるが、本籍地は福島県郡山市南町百八拾六番地であった。戸主は中條精一郎で、百合子はその長女である。宮本顕治との婚姻届が、1934(昭和9)年12月28日に提出されて山口県の宮本家戸籍に同日入籍している。一般に本籍地といっても東京に居住している人物にとっては書類上の籍であり、親や先祖の出身地でしかない場合が多い。しかし、百合子の場合は単なる書類上の本籍地ではなく、彼女自身の人間形成に大きく影響を与えた土地であった。この点で彼女にとって郡山市南町-開成山-は書類上での本籍地ではなく本当の故郷としての意味を持ったといってよいだろう。宮本百合子にとって開成山は真の故郷であった。

  百合子は父中條精一郎よりは祖父中條政恒に最も近い存在であった。精一郎は山形県米沢に生まれ政恒の任地福島市で小学校を卒業して上京、東京での生活が多く東京帝大工科大学建築科卒業後、文部省の技師を経て札幌農学校土木工学科講師嘱託となった。この頃、百合子は東京市小石川区で生まれた。1899(明治32)年2月13日であった。母葭江は明治初期に思想家として活躍した西村茂樹の長女であった。

  祖父中條政恒は米沢藩士であったが、1872(明治5)年に福島県典事として来県した。政恒は若い頃より北方開拓に関心を持ち殖産開墾を主張して来たが、福島県典事に就任したのを機会にして安積郡大槻原(現 郡山市開成山を中心にした)の荒野開拓を立案して、積極的にこの事業に心血を注ぎ、猪苗代湖の水を引く安積疏水の計画を大久保利通に説き、この大工事を実現させた。現在の郡山市発展の基礎を築く大きな役割を果たした。

  この祖父の実行した安積開拓によって生まれた桑野村開成山を舞台にした様々の作品を残した作家が孫の宮本百合子である。百合子の文壇的処女作となった小説『貧しき人々の群』(『中央公論』発表後、1917年玄文社刊)は、17歳の作品であった。この作品に描かれた世界は祖父政恒が、その生涯をかけて心血を注いだ開拓地で起こった事柄で、それを鋭い少女の観察眼と優れた描写によって文学化した。大正初期の人道主義の作品として日本文学史に不動の位置を占めることになった。百合子は祖母のお運の住む開成山に滞在して、没落した農民の姿に心を痛め、社会の矛盾の中で人間として虐げられている人を救うのには「所謂慈善だとか見栄の親切だとかいう」もので解決できないという考えに至ったのであった。「どうぞ憎まないでおくれ。私はきっと今に何か捕える。どんな小さいものでもお互いに喜ぶことの出来るものを見つける。どうぞそれまで待っておくれ。達者で働いておくれ!私の悲しい親友よ!私は泣きながらでも勉強する。一生懸命に励む。」という強い願望と探究心は百合子文学の生涯一貫した思想となったのであった。

  福島の飯坂を舞台に描いた『禰宜[ねぎ]様宮田』も開成山の没落農民をモデルにした作品である。禰宜様宮田と綽名[あだな]された一家の不幸を美しい自然を背景として、架空索道から転落して死ぬ六という息子の姿を結びとして浪漫的に表現した。また、祖父政恒に従って忠実に生きた一農民をモデルにして、人間の哀感を描いた『三郎爺』など、日本近代化の根底にあった人間性の疎外を人道主義的立場から小説化した。

  その後、父に同伴して渡米したニューヨークで、第一次世界大戦の終結の光景を見て感動して現代史に関心を持った。この地で古代東洋語学者の荒木茂と恋におち結婚した。しかし、この結婚は百合子の理想とした人間に自由を与えるものではなく「足かけ4年ばかりは泥沼時代」と呼ぶ不幸なものとなった。この経験を背景にして小説『伸子』を描いた。これは愛情によって結びついた結婚生活も実は人間として女性として成長しようという願望を押し潰[つぶ]す狭い小市民的世界でしかなかったのを痛感させた。この様な現実の中で苦闘する若い女性の姿を描いたのが『伸子』であった。この作品の主人公伸子にとって人間的活力と再生を感じる土地として、郡山の開成山は描かれている。

  小説『伸子』(1928年改造社刊)の印税を基金にして百合子は革命後のソビエトに旅行した。この新しい国の農民と労働者の生活に感激し、百合子が若い日に抱いた理想の一端を発見したのであった。そして第一次世界大戦後のヨーロッパ社会を旅行した体験が、大長編『道標』(筑摩書房刊)を晩年の1951(昭和26)年に完成させたのであった。

  作品『道標』で述べている様に「百万人の失業者があり、権力に抵抗して根気づよくたたかっている人々の集団のある日本へ」新参者として参加しようと百合子は、1930(昭和5)年11月に帰国して、日本のプロレタリア文学運動に入り、運動の代表的作家として活躍した。作品「小祝の一家」「乳房」「刻々」等がある。文学運動の中で新進気鋭の文芸評論家宮本顕治を知り、1933(昭和8)年2月結婚した。この頃秘密裡に日本共産党に入党した。プロレタリア文学への参加は『貧しき人々の群』以来の百合子自身の理想を求める道であった。1930年代の国家権力による文学運動への弾圧は激烈で、夫顕治は非合法生活に入り、結婚2ヶ月で二人の生活は引き裂かれた。顕治は共産主義者として逮捕拘禁された。百合子は顕治との愛を貫くために山口県の宮本家に入籍した。百合子自身も度々検束され文学者としての生命である執筆を禁じられた。1941(昭和16)年に巣鴨拘置所で熱射病で倒れ人事不省で釈放。これが戦後、1951(昭和26)年に百合子の死を早める原因となった。獄につながれた夫顕治との愛の往復書簡『十二年の手紙』(筑摩書房刊)は日本における通信文学の傑作である。『播州平野』は網走に囚われている夫を追って、郡山開成山に来て終戦を迎えた様子や郡山空襲が描写された歴史的作品として高い評価を受けている。



参考文献


(塩谷 郁夫 -「福島県女性史」1近現代に活躍した女性たち より)