高村 智恵子(たかむら ちえこ)

 (1886~1938) ー光太郎との愛を貫き、共に美の探究に生きた女性ー


 高村智恵子は、明治時代末期から大正時代にかけての、当時としては珍しい女流洋画家である。また、「世の慣習を無視しても、たった一度しかない自分の生涯を自分で選びとろう」と決意し行動した〝新しい女性〟でもあった。そして、智恵子の名を広く世に知らしめたのは、精神病を患う中で奇跡的によみがえった画家魂が生み出した紙絵と、没後に夫高村光太郎が妻智恵子との純愛を綴った不朽の名詩集『智恵子抄』である。

  智恵子は1886(明治19)年、安達郡油井村字漆原(現在、安達町油井)の酒造業斎藤今朝吉、センの長女として出生。後に今朝吉が長沼次助の養子として入籍し、智恵子も長沼姓となる。清酒「花霞」を醸造する長沼家は酒蔵が何棟も並び、使用人の男衆、女中などが大勢働き活況を呈していた。

  少女時代の智恵子は何不自由のない生活を送り、油井小学校尋常科4年を卒業し、高等科に進み高等科4年を卒業する。当時の学籍簿(智恵子記念館に展示)にはほとんど満点の成績で常に首席。高等科を卒業後、町立福島高等女学校3年に編入する。高等女学校卒業時には、卒業生総代として答辞を読んだ。

  智恵子は向学心に燃え、日本女子大学に入学し、寮生活に入る。寮生活をともにした秋広あさは「智恵子さんの印象」で「落着いて口数少なく物事に熱中する一面、決して真面目一方ではなく、ユーモアに富み不意にみんなをあっと言わせる智恵子であった」と記している。

  智恵子は普通予科を経て、家政学部に進んだ。先輩の柳八重が、「智恵子さんは家政学部に籍をおきながら、自由選択科目である洋画の教室にばかり出ていました」(「智恵子さんのこと」)と回想するように、洋画に興味を持つようになる。

  日本女子大学を1907(明治40)年に卒業後も帰郷せず、両親を説得して当時としては珍しい女流洋画家として太平洋画会研究所に通い、油絵を学び、人々の注目をひき始める。1911(明治44)年創刊の平塚らいてう等の婦人運動の雑誌『青鞜』の表紙絵を描く。キリッとした横顔を見せ、まっすぐに立つ女性像の絵は婦人解放の意図を的確にとらえていて強い印象を与える。田村俊子ら青鞜社の人々との交流も深く、智恵子は『女の生きていく道』の中で「男にも自由があるように女にも自由がある。是れが男女を通じてその生活の根本である。どう考えてみてもこの根本は動かない」と述べているように女性問題にも関心を持つ、新しい女性として迎えられた。

  光太郎との出会いは柳八重の紹介による。智恵子にとって光太郎との出会いは大きな刺激となり、絵の制作活動が旺盛となる。光太郎にとっても智恵子の出現は強い印象となり、智恵子に贈る詩が次々と世に現れるようになる。こうして二人は1914(大正3)年に結婚。駒込のアトリエで光太郎は彫刻、智恵子は油絵に熱中した。しかし、親の保護を離れた二人が生活を支える苦労は並大抵ではなかった。その上、智恵子は生活の雑事等で光太郎の芸術活動に支障をきたさないように気を使う日々であった。

  智恵子の父今朝吉が1918(大正7)年57歳で没する。父の死後、事業の不振や家庭のいざこざから実家が倒産し、一家が離散した。故郷の喪失は智恵子にとり大きな痛みとなったことであろう。

  智恵子に精神分裂症の徴候が現れたのは、46歳の頃からであった。生家長沼家の破産や家族の問題等に加え、智恵子自身の絵画制作の行き詰まりなどが重なったことによると言われている。その後、睡眠薬による自殺未遂を引き起こす。光太郎は智恵子を伴い、故郷福島の温泉や九十九里浜への転地療養をするが症状は良くならず、やむなく南品川ゼームス坂病院に入院させる。症状が一進一退する中で画家の才能が奇蹟のようによみがえり、紙絵によって開花させた。智恵子に付き添う姪の宮崎春子の『紙絵のおもいで』に制作の姿が描かれている。

目に触れるものを作らずに置かなかったこれらの作品は、こんなきれいな花、こんな見事な蟹、こんなおいしそうな果物とすべて光太郎に語りかける愛のうた、日々の報告でした。下描きもなしにいきなり切り込んでゆくマニキュアの鋏の線条は光太郎の木彫りの刀痕を思わせ、重ねられた微妙な色調は見事な諧調を保ち、切り貼る技法は見る者を驚嘆させます。しかも狂躁の季節を除けばおそらく一年に満たない月日に千数百の紙絵となった。

 思えば、智恵子はひたすら芸術精進を願いながらも、光太郎への純真な愛に基づいて日常生活との間に起こる諸問題のために、抑圧されていた芸術への才能が、精神病を患いその生涯の終わりが近づく中で、もろもろの苦しみから解き放たれた時、奇蹟のように才能を紙絵によって開花させたのであろう。紙絵には見る者の心を打つ輝きがある。

  智恵子は夏頃から病状が悪化し、紙絵制作も休みがちとなり、1938(昭和13)年粟粒性肺結核のため、光太郎に見守られながら52歳の生涯を閉じた。

  1941(昭和16)年に光太郎が今は亡き智恵子への鎮魂の想いをこめて、詩や散文をも含む詩集『智恵子抄』を出版した。『智恵子抄』は戦時下の暗い世情の中で人々の感動を呼び13刷を重ね、智恵子の純愛が人々の心に浸み通った。



参考文献


(山本ナカ 「福島県女性史」1近現代に活躍した女性たち より)