瓜生 岩(うりゅう いわ)

 (1829~1897) ー社会福祉運動に半生を捧げた女性ー


  悲運の少女時代を経て、後半生を社会運動に捧げ、ある人をして菩薩の化身とも、日本のナイチンゲールとも称讃された慈善事業家瓜生岩は、二百余名の孤児の母であり、混乱期の社会福祉運動の先駆けとして、1896(明治29)年の藍綬褒章受章後、もうすぐ1年が経とうとする1897(明治30)年4月19日、その慈愛に満ちた生涯を閉じた。

  岩は1829(文政12)年2月15日、今の喜多方市内の油商、若狭屋(渡辺)利左ェ門の長女として生まれ、天保の飢饉の影濃い会津でも、裕福な商家の娘らしく不自由なく暮らしていた。巷[ちまた]では、殺人、略奪、放火などが横行し、農村部では松の甘皮などを食して飢えを凌[しの]いでいた。

  1837(天保8)年父病死、若狭屋も焼失し、九歳の岩は母りえと母の実家、熱塩村の温泉業瓜生家に身を寄せる。

  1842(天保12)年、岩は14歳で、子持たずの叔母とめの家に行儀見習いに出る。とめの夫山内春瓏は会津藩の侍医であり産婦人科に長け漢学に秀でていた。春瓏は領内に堕胎や間引きの多いことを嘆き、これらの防止に尽力していた。岩はその手伝いをしながら、人が人としてどうあるべきかを学び、自身の博愛精神を育んでゆく。

  後年岩自身も堕胎防止を説き、人々を啓蒙し続け、法令で堕胎が禁止されると、その禁を犯し投獄された者たちを助けようとするが、女一人の力では国法の前になすすべもなかった。しかし、岩は堕胎の手助けをする助産婦たちや婦女子たちにその罪を説き、貧窮し間引きしようとする家庭があれば訪ねて行き、金などを渡し説得することも度々。

  17歳で婿養子を迎えた岩は、若松横三日町に呉服店若葉屋を開店。家業は栄えて一男三女にも恵まれたが、夫が結核に感染するや客足は途絶え、番頭が金を持ち逃げするなどの不幸に見舞われ、呉服の行商と手内職、そして夫の看病に明け暮れながらも、貧しい者への施しも絶やさなかった。

  1862(文久2)年、夫茂助他界。続いて母も夫の一周忌の済まぬうち他界。岩は重なる不幸の連続に失意のうちに弟の継いだ熱塩の瓜生家へ出戻る。

  1868(慶応4)年、鳥羽伏見の戦いに端を発した戦乱は会津藩をも巻き込み、焼土と化した。傷つく兵士、血に染まり泣き叫ぶ子供たち。流れ弾丸に斃[たお]れる市井の人々。怒号と砲声、うめき声と悲鳴の中を岩は敵味方の区別なく救助し看護する。

  その働きは西軍参謀板垣退助の耳にも達して、退助は岩に会うことを切望するが戦乱の中叶わなかった。しかし後々、福島事件の河野広中を通じて、退助と岩は対面し、岩に惜しみない援助をしている。

敗戦後賊軍となった会津藩士の屍[しかばね]は埋葬も許されず累々[るいるい]と死臭を放っている。戦禍に人々は家を失い家族を失いして、今を生きる望みすら絶たれていた。幼児たちも飢え畏縮し心も荒んでいた。藩士の子弟たちは教育も受けられず賊軍の汚名に鬱々[うつうつ]と日々を過ごしている。

  岩はいたたまれず民政局に幼年学校開設の許可を執拗に迫る。民政局に日参すること半年に及ぶ。1869(明治2)年にようやく許可が下り、私費を投じ校舎完成。習字、珠算などこれからの時代に不可欠な教育を行っている。また、藩士たちにも養蚕などの技術を教え、自力更生の道を開かせた。

  しかし、1871(明治4)年、小学校令発布予告によって、幼年学校は閉鎖される。閉鎖後の幼年学校跡は、貧者救済や婦女子教育の場となった。

  民政局は、戦没者供養、貧児救済などを表彰。

  1871(明治4)年11月から、東京深川の教育養護施設、救養会所で児童保護、貧者救済の実際や経営等を半年ほど学び帰郷。

  岩は喜多方に本格的救済所を設けようと努力するも、戦乱の後遺症は未だ人々にその余裕を与えなかったが、幼年学校跡が手狭になると廃寺を借りて、後を絶たぬ貧窮者に手を差し延べた。

  1880(明治13)年以降、県令県知事が変わるごとに表彰を受け、自由民権運動の弾圧者三島通庸県令とは親交も厚く、その縁もあり1887(明治20)年には時の県知事折田平内らの招きもあり、福島に活動の拠点を移す。

  二年後には、知事より養育所の設立許可が出て、福島救育所が開設。8月には福島に立ち寄った中山一位局より金500疋[ひき]と下賜の品が授けられた。

  岩は第1回帝国議会にも、全国的貧民救済の請願書を提出しているが却下。

  しかし、岩のことを耳にした皇后陛下より東京養育院に内旨が下り、岩は約8ヵ月間幼童世話掛長として従来の役所的養育院の経営に変革をもたらした。

  1891(明治24)年、会津に育児会を設立。瓜生会、鳳鳴会などを組織し貧者救済に拍車をかけた。

1895(明治28)年、福島育児院(現在の福島愛育園)の礎となる育児部を鳳鳴会から独立させる。

また、岩は捨てられてしまう飴の糟[かす]を用いて飴糟餅などの製造を考案し、人々に広めている。

  1893(明治26)年、有力者たちの援助もあり、済生病院を若松に設け、無料で医療を行い、婦女子に教育も施している。野口英世の母も岩の協力で産婆の資格を取得。

  岩の支援者には板垣退助や大山巌、その夫人たちのほか多くの人々が存在した。

  岩の業績を讃えるべく、東京浅草寺、熱塩示現寺の境内、そして喜多方市内の多くの場所に銅像が建てられた。浅草のものだけは戦争中の供出をまぬかれ、他のものは再建され今日に至る。



参考文献


(竹内 智恵子 -「福島県女性史」1近現代に活躍した女性たち より)