若松 賤子(わかまつ しずこ)

 (1864~1896) ー女流作家・評論家、小公子の翻訳者ー


 賤子の本名は巖本嘉志子[いわもとかしこ]。1864(元治元)年、若松市阿弥陀町で出生。幼名は甲子[かし]。 祖父は会津藩士古川権之介。父は古川家より松川家に養子入りした松川勝次郎正義である。 甲子3歳のとき妹美也(宮子)が出生したが、この年会津の戦いが始まり、賤子一家も戦いの渦中に入る。勝次郎は隠密として各藩の動勢を探査中で留守。賤子母子3名は戦難を避け城下を逃げ回ったと、後に『会津城包囲(英文)』に賤子は書いている。敗戦を迎えた会津藩は斗南[となみ](青森県)へ移封となり、勝次郎は斗南へ向かったが、病弱な母は夫と行動をともにすることができず、二人の娘とともに会津に残る。勝次郎はその後行方不明となる。1870(明治3)年、母が病死したので孤児となった賤子と美也は親戚に引き取られた。

  このとき商用で若松に来ていた横浜の織物商山城屋和助の手代大川甚兵衛は賤子の才に惚れ養女にと要望した。横浜の大川家の娘となった賤子は、衣食をはじめ豊かな生活に恵まれたが、未知の土地での生活になじめない。そこで養母おろくは賤子の教育を他人の手の方がよいと考え、1871(明治4)年にメアリー・エディ・キダー(日本最初の女性宣教師)の始めた英語塾に入学させた。この英語塾は横浜の居留地にあるヘボン(ヘボン式ローマ字の考案者で長老派の宣教師)の施療所内にあり、当初は6名で開校した。当時は女子教育は考えられない時代であり、東京や京都に女学校が設立されるのは1872(明治5)年以降のことである。このことが、賤子の一生の方向づけとなった。この英語塾には後に会津より井深梶之助(明治学院総理)、たみ、とせ(フェリス女学院教師)なども入学している。苦学を強いられた井深一族とは異なり、賤子は恵まれた環境のもとで学業に励み始めた。賤子7歳のときである。

  1872(明治5)年、キダー塾が神奈川県庁舎(野毛山)内に移転した頃、山城屋和助は明治政府の疑獄事件に関与し自刃。山城屋の倒産に伴い、甚兵衛は賤子を連れ東京へ転居した。1875(明治8)年、キダー塾が寄宿制のフェリス・セミナーとして再開したのを機会に、賤子は再び横浜に戻り学業に取り組むことになった。2年後賤子は横浜の海岸教会でE・R・ミラーよりキリスト教の洗礼を受けた。1881(明治14)年、キダーが帰国し、後任にはブースが就任した。賤子は18歳となり優秀な成績で第1回の卒業生となった。賤子はブースの要望を受け、母校フェリス・セミナーの和文の教師に就任した。1883(明治16)年、養父大川甚兵衛が死亡した。この頃実父勝次郎が妹宮子(美也)と共に東京に居住していることを知り、2年後に復籍をした。

  賤子は教師として活躍する一方で「時習会」という文学会を結成し活動を始めた。このときフェリス・セミナーに講演に来た『女学雑誌』の主宰者である巖本善治[いわもとよしはる]と親しく交際を始めた。善治は明治女学校の創立者でキリスト教の信仰者でもある。善治の勧めにより賤子は『女学雑誌』23号に「若松賤子」のペンネームで「旧[ふる]き都のつと」と題する鎌倉紀行文を発表した。「若松」は生地からとったもの、「賤子」は神の恵に感謝するしもべの意味である。これを機会に甲子[かし]の本名の「嘉志子[かしこ]」と改めた。

  賤子の善治に対する共鳴は信頼となり、愛情へと発展、1889(明治22)年、2人は海岸教会で結婚式を挙げた。このときの証人は中島信行(西郷頼母邸の女性全員の自刃に立ち合ったといわれる)とその妻である。列席者の中には植木枝盛(廃娼運動家)の名も見える。賤子はこの時「われはきみのものにならず、私は私のもの、夫のものではない。あなたが成長することをやめたら、私はあなたを置き去りにして飛んでいく。私のこの白いベールの下にある私の翼を見よ」という『花嫁のベール』と題した詩を善治に贈っている。賤子25歳のときである。

  賤子の文筆活動は、『女学雑誌』を中心に、『国民の友』『太陽』『評論』『少年団』『少年世界』等に創作・評論・詩・英米図書の翻訳など多岐にわたり発表する。また賤子は時習会を充実し、内外人を招いて文章朗読、英詩読誦、演説、英会話、音楽等活動分野を広げ、名称も「文学会」と改めた。賤子の文筆は、『お向こうの離れ』『すみれ』『忘れ形見』と発表する中で賤子の人気が出、『女学雑誌』に発表した翻訳小説「小公子」は延べ45回にわたる長期連載となり、文学者としての地位を不動のものとした。やがて賤子は過労から肺結核となった。しかし賤子は病床より『イノック』『アーデン物語』『ローレンス』等の翻訳を世に送った。1896(明治29)年、賤子は33歳の短い生涯を閉じた。

  賤子は『閨秀小説家問答』の中で自らを教育者としてとらえ、小説は作り方、用い方によっては教育効果を高められるとしている。賤子の文章は言文一致の口語訳文で分かり易く、また英文の評論は日本女性を海外に紹介する重要な役割を果たした。野辺地晴江は『女学雑誌概観』の中で「女性の地位向上を願う、あらゆる人々の支持を得た」と述べている。これは家や家族から抜け出し、女性の自主性が前提となっている文章が多いからであろう。島崎藤村や北村透谷などとは明治女学校で共に教鞭をとった間柄であり、樋口一葉など明治文学界に活躍した女流作家にも大きな影響を与えている。一葉の擬古典主義の古風な文体と対照的に賤子の文は欧風化の最先端にいたといえるであろう。

  賤子は一男二女(清子・荘民・民子)をもうけたがそれぞれ文学界、教育界で活躍をした。孫の巖本真理は名バイオリニストとして著名。1962(昭和37)年には生地の古川家の庭に文学碑が建立され、同時に「若松賤子展」も開催された。東京都巣鴨の都営染井霊園には善治・賤子の墓があり、墓碑に「如霊(善治のペンネーム)・賤子」の文字が刻まれている。



参考文献


(玉川 芳男 -「福島県女性史」1近現代に活躍した女性たち より)